堀川と木材


堀川に浮かぶ材木〈阿部繁弘 画〉


 堀川は木材の川でした。
 水面にはびっしりと丸太がうかび、そのあいだを下流から船に引かれたいかだ(丸太を何本もたばねたもの)があがってきます。いかだ師がトビグチという道具一つで、太い丸太をじょうずにあやつって動かしていました。川岸にはクレーンがあり、川から丸太を岸に引き上げ、大きな機械で切って柱や板にしていました。それらを売る材木店もたくさんありました。
 昔は堀川の川岸に建ちならんでいた製材所や木材店も、今では、名古屋港の西にある西部木材港へ引っこしたり、マンションなどに変わったりして、ずいぶん少なくなってしまいました。


堀川から木材を陸揚げするために使うクレーン
堀川から道路横切って工場へ丸太を運んだ
トロッコのレール
堀川にうかぶ丸太もずいぶん少なくなりました


木曽ヒノキと白鳥貯木場

  熱田区の白鳥には大きな貯木場があり、名古屋は木曽(きそ)ヒノキの集散地として有名でした。
 元和元年(1615)に木曽が尾張藩(おわりはん)の領地になり、山で切られた木は、木曽川や飛騨川(ひだがわ)をくだり、いかだに組まれて伊勢湾(いせわん)を横切って熱田に運ばれてきました。
 当時は堀川の河口であった白鳥に材木場(貯木場)が設けられ、材木奉行(ざいもくぶぎょう)がおかれて、木を保管したり商人へ売ったりしていました。海水と川の水がまじる堀川の水につけておくと、木のあくがぬけるので、品質の良い「尾州材」(びしゅうざい 尾張から運ばれた木)として全国的に有名になりました。



文化元年(1804)の様子。両岸に材木場があります。


昭和22年(1947)の様子。
木材を水中で保管する池や、鉄道の線路があります。

 材木場は、最初は堀川の東岸にありましたが、その後何度もひろげられ、江戸時代の終わりには、堀川両岸の約79,000平方メートル(ナゴヤドームの1.6倍の広さ)に、たくさんの木材が保管されていました。
 明治10年(1877)に国の管理になり、さらに貯木場も整備され、明治40年(1907)に名古屋港が開港場になると、海外からもたくさんの木材が輸入されてきました。大正5年(1916)には、中央線や高山線の鉄道で運ばれた木材を積みおろしする白鳥駅もつくられ、大正10年(1921)には、面積が188,000平方メートル(ナゴヤドームの3.9倍の広さ)になりました。その後、輸入される木材が増えたことや、伊勢湾台風(いせわんたいふう)の時に保管していた木材が流れ出して大きなひ害を起こしたので、木材の取りあつかいは昭和43年(1968)に完成した西部木材港(せいぶもくざいこう)への移転がすすめられ、貯木場は無くなりました。
 昭和54年(1979)、名古屋市に土地が売られ、今はうめたてられて白鳥公園などになり、園内の池が昔は貯木場だったことを伝えています。
   
  (CD 堀川ミュージアムより)


堀川から貯木場へ木材を出し入れした、相当古い石積みの水門です。
ふだんは水中にあり見えません。堀川の工事の時に姿を現しました。