鎌倉街道と古渡橋


江戸時代の絵。中央の神社は古渡稲荷社(ふるわたりいなりしゃ)。
右下の道には小栗街道と書いてあり、右上の橋が古渡橋

 古渡橋(ふるわたりばし)は、堀川がほられたころにかけられた「堀川七橋(ほりかわななはし)」の一つです。かかっている所の地名「古渡」から名付けたといわれています。
 昔、この近くを鎌倉街道(かまくらかいどう)がとおっていました。
名古屋の近くには、ずっと以前から、当時の日本の都(みやこ)だった京都と今の関東方面を結ぶ道があり、たくさんの人が行き来していました。建久3年(1192)に、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に政治を行う幕府(ばくふ)をひらくと、より多くの人がとおるようになりました。この道のことを「鎌倉街道」とよびます。
 街道は、今の岐阜県(ぎふけん)から、一宮市や甚目寺町(じもくじちょう)をとおって、名古屋市内に入り、中村区の宿跡町(しゅくあとちょう)から中川区の露橋町(つゆはしちょう)、中区の古渡町(ふるわたりちょう)、熱田区の熱田神宮などをとおって緑区の鳴海町(なるみちょう)へとむかっていました。




 また、この街道を「小栗街道」(おぐりかいどう)ともよびます。これは、むかし小栗判官(おぐりはんがん)という人が、病気をなおすためにこの街道をとおって和歌山県まで行ったという伝説が伝わっており、このようによばれました。
 堀川がつくられたころには、この道はもう東西をむすぶ街道としては使われなくなっており、伝馬橋(てんまばし)の美濃街道(みのかいどう)や尾頭橋(おとうばし)の佐屋街道(さやかいどう)、熱田の東海道(とうかいどう)がにぎわっていました。

 (CD堀川ミュージアムより)

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