木曽川の水を堀川に導水した人

 明治維新(めいじいしん)は、新しい時代をつくるために、
青年たちが、自分の夢をかけて戦いなしとげたものです。

 維新の年(1868)に、中心となって活躍した伊藤博文(いとうひろぶみ)は
時に27才、山県有朋(やまがたありとも)は30才でした。
 
 愛知県でも、明治のはじめに新しい国をつくるために土木事業で活躍した
青年がいました。

 木曽川の水を堀川に導水した人、黒川治愿(くろかわはるよし)です。

 彼のなしとげた仕事を知る人は少なくなりましたが、彼の名前は、
川の名前として町の名前として現在でも残っています。

 木津用水(こっつようすい)を改修し、木曽川の水を堀川に導水した
黒川治愿は弘化(こうか)4年(1847)に岐阜県稲葉郡佐波村
(いなばぐんさばむら 岐阜県羽島郡柳津町)に川瀬文博(かわせふみひろ)の
次男として生まれました。

 幼名を鎌之助(かまのすけ)といいます。

 明治維新の年、20才になった治愿は大きな夢をいだいて京都に出ました。

 京都で御所の役人黒川敬弘に見こまれ、その家を相続する養子となりました。

 明治5年(1872)香川県の役人となり、翌年には徳島に変わりました。

 明治8年(1875)29才の時、愛知県に赴任(ふにん)しました。
 愛知県の時の県令(今の知事)は安場保和(やすばやすかず)でした。
 黒川治愿の幸運は安場保和との出会いでした。

 愛知県に赴任した黒川治愿は、安場保和から県の土木工事のすべてを
まかされたと言ってもよいでしょう。

 明治9年、大幸川の改修工事にとりかかりました。
 
 その工事が翌年完成すると、すぐに入鹿池(いるかいけ)の堤防(ていぼう)の
改修工事にかかりました。

 入鹿池は明治元年の大豪雨(だいごうう)により河内屋堤防が決壊(けっかい)しました。
死者は千余名、流失家屋八百余戸という大惨事(だいさんじ)を引き起こしました。
補修工事が行われましたが、住民の不安はなかなか消えません。
 明治12年(1879)安場保和は黒川治愿に命じて抜本的な工事にとりかからせました。

 尾張富士山麓(さんろく)に続く岩盤地帯(がんばんちたい 岩石でできている地盤)を
爆破(ばくは)して、水の流れを作り、くだいた岩石でじょうぶな堤防に改築しました。

 新しい技法の工事は、人々を驚かせました。

 大幸川、木津用水、入鹿池の他に彼が手がけた工事は、明治12年、
明治用水の改修工事、明治17年の宮田用水の工事などがあります。

 病気療養(りょうよう)のため明治20年(1887)に職を辞し、明治30年(1897)5月29日、
名古屋久屋町で51才の人生の幕をとじました。


木津用水(こっつようすい)と黒川治愿


現在の木津用水

 黒川治愿(くろかわはるよし)は、新木津用水と堀川とをつなぎ、
犬山から名古屋に船を通す計画を立てていました。

 幅3.9メートルの川では、船を通すことはできません。
10メートル幅にして、川底を堀り下げる。木曽川(きそがわ)から取り入れた水を
下流の村の農業用水にするとともに、堀川に通すという計画です。

 明治10年(1877)、この計画が下流の春日井市の上条新田(じょうじょうしんでん)、
味鋺原新田(あじまはらしんでん)など5つの村に示されました。

 下流の村の人たちは、たいそう喜びました。
 当時のお金で、7万円という予算で計画を実現することになりました。
5つの村の人は、人夫をのべ7万人出して協力することにしました。

 しかし、上流の村では、川幅を広げることにより土地がけずられ、
へってしまうと強い反対が起きました。
 
 黒川治愿は、上流の村と下流の村のあいだに入って、水を通して
村を豊かにするために工事をぜひしなければならないと説得しました。

 治愿は下流の5つの村が、上流の村に500円を支払うことでまとめました。

 下流の村の人たちは、人夫として毎日かり出され、その上きびだんごを
食べている農民には500円を払うことはとてもできないと、この案に反対しました。
 治愿は、この計画をあきらめ、予算は明治用水の方にまわされました。

 その後、いくつかの反対がありましたが、明治17年(1884)、
八田川(はったがわ)の合流地点まで幅11メートルの改修工事が完成しました。


黒川治愿の碑(ひ)

 明治17年(1884)、新木津用水(こっつようすい)の
改修工事は八田川(はったがわ)の合流地点まで完成
しました。

 そのつぎの年、黒川治愿(くろかわはるよし)は、
病気のため県庁を退職し、名古屋市の南久屋町の
自宅で、療養生活(りょうようせいかつ)に入りました。

 明治19年(1886)9月25日、工事の完成を祝い、
黒川治愿が行った木津用水の改修(かいしゅう)の仕事を
たたえる碑が、春日井市の高山に建てられました。
 
 朝宮公園(あさみやこうえん)のかたわらを木津用水が
流れています。
 改修記念の碑は、川の流れを見つめて立って
います。






 明治28年(1895)10月、春日井市の柏井町(かしわいちょう)にある慈眼寺(じげんじ)の境内(けいだい)に
上条新田開拓碑(じょうじょうしんでんかいたくひ)が
建てられました。

 碑は漢文によってしるされたなかなかの名文です。

 「木津用水の改修により、荒れはてた地に水が引かれ、
米が多くとれるようになった。
 多くの金銭を出し、何日も工事に人夫として出かけて
働いた」とその努力が実った喜びが簡潔(かんけつ)な
文の中によく表れています。
 
 現在、この碑は慈眼寺から、春日井市の中央公園の
南側にある神明社に移されています。
 
 木々にかこまれた碑に目をとめる人は誰もいません。
木もれ日をうけて、鳥のさえずりを聞きながら、
碑はさびしく立っています。


 二子山古墳(ふたごやまこふん)の近く、白山神社
(はくさんじんじゃ)の境内には、明治30年(1897)に
建てられた味鋺原新田(あじまはらしんでん)改修記念碑が
あります。

 この碑の書きだしは「苦労を多くしたものは、苦労の
はてに手に入れた幸福の感激をだれよりもよく知っている」と、木津用水が改修され、きびだんごを主食としていた
まずしさから解放された喜びが感謝をこめてしるされています。



 八田川にかかる御幸橋(みゆきばし)には、
黒川治愿遺沢(くろかわはるよしいたく)の碑が
立っています。

 明治42年(1909)に、治愿の子息、耕作が
しるしたものです。
 
 遺沢とは、あとに残っているめぐみの意味です。

 「黒川治愿のおかげで、勝川地方も田畑がふえて、
まずしいくらしからぬけ出ることができた。
 今の人は、そのめぐみを知らないでいる。
 『もし先君なかりせば、何ぞ今日あるか』」

 もしも、黒川治愿がいなかったならば、勝川地方の
今はないとしるしています。

(CD 堀川ミュージアムより転載)