黒川ができました 明治時代の堀川



 明治10年(1877)に水分橋(みずわけばし)から名古屋城の西にある朝日橋まで水路がつくられ、今の堀川の姿になりました。黒川治愿(はるよし)がつくったので「黒川」と名付けられました。
 この工事は、大きな計画の一部として進められました。

● 犬山と名古屋を直接むすぶ交通路

  明治の始めころ、人や物を大量に運べるのは船しかありませんでした。木曽川(きそがわ)にめんした尾張北部の中心地である犬山から木曽川をくだり桑名(くわな)から海をこえて熱田や名古屋に物が運ばれていました。犬山から名古屋へ、さらに熱田へ直接行くことができる航路をつくれば短い時間で運べるようになり、名古屋をはじめ川ぞいの町や村の産業が栄え、豊かになることが期待されました。

● 庄内用水による水田のかんがい

  このころは名古屋の北部から西部、南部は一面の田になっていて、庄内川の水を取り入れて流れる庄内用水(しょうないようすい)から田に水をひいていました。江戸時代(えどじだい)にそれまで田でなかったところにも田がつくられ、たくさんの水が必要になって、用水の下流では水が足りなくなってきました。庄内用水に流す水を増やさなければいけませんが、用水のもとになっている庄内川を流れる水も少ないので、木曽川の水を庄内川に流して水を増やすことにしました。


 このため、犬山で木曽川から水を取り入れている新木津用水(しんこっつようすい)を直してたくさんの水が流れ、船が通れるようにしました。新木津用水の下流・八田川が流れこむ庄内川の対岸に、新しい水の取り入れ口をつくり、ここから南に水路をほり、堀川や庄内用水などにつなぎました。
これにより、犬山からの船が堀川に入ってこられるようになり、取り入れる水も増えました。


矢田川の伏越(ふせこし)


 最初につくられたのは、黒川がほられた明治10年(1877)。その後明治24年(1891)の濃尾地震(のうびじしん)でこわれたので、よく年の明治25年(1892)につくり直されました。
これまでの伏越(ふせこし)は木でできており、くさりやすく長持ちしなかったので、明治44年(1911)に人造石でつくり直されました。今、コンクリートを使ってトンネルをつくるように、人造石を固めてトンネル部分をつくっています。
 この人造石でできた伏越は長い間使われましたが、矢田川の川底が水でけずられて、伏越の天じょう部分が1.4mほど川底から出てしまいました。大雨などのときにあぶないので、昭和30年(1955)に取りこわされ、前よりも低い位置にコンクリートでつくり直されました。
 今の伏越は昭和53年(1978)、三階橋ポンプ所を建築する時に、つくり直されたものです。

 むかし犬山からの船がとおっていた時には、船がこの伏越の中をとおって名古屋の都心に向かいました。矢田川の川底のさらに下を船が進んで行くなんて、考えるだけでも楽しいですね。


黒川分水池



 今、三階橋ポンプ所が建っている場所に、昔は分水池(ぶんすいち)がありました。
 庄内川(しょうないがわ)から取り入れ、矢田川の下を流れてきた水は、ここで堀川(黒川)、庄内用水、御用水(ごようすい)、上飯田用水、志賀用水などに分けられました。

 黒川をほった明治10年(1877)に分水池もつくられ、大切な水を各用水などに分けるところなので、元杁樋門(もといりひもん)、矢田川伏越(ふせこし)とならぶ大事な所でした。黒川へ流れ出すところには黒川樋門(ひもん)が、庄内用水に流れ出すところには三間樋(さんげんひ)と呼ばれるりっぱな水門が設けられ水量の調整が行われていました。
 名古屋の町が大きくなり、家が増えて田畑が少なくなってきました。このため、大雨のときに下水に流れこむ水が増え、下水の水を矢田川にポンプで出すことにしました。昭和52年(1977)に分水池をうめて、その上に「三階橋ポンプ所」がつくられました。
 分水池はなくなりましたが、矢田川の下をくぐってきた水は、「三階橋ポンプ所」の中にある水路で堀川と庄内用水に分けています。また、昔堀川へ流れる水を調節した黒川樋門が昭和55年(1980)に元の姿でつくられ、明治の樋門のようすを伝えています。この樋門は、名古屋市都市景観重要建築物に指定されています。


 (CD 堀川ミュージアムより転載)