大幸川を堀川につなぐ

大幸川が江川につながっていたころの地図

 川は、上流から土や砂を運んでくるので、流れがゆるやかな下流では土などがたまり、だんだん川底が高くなります。川底が高くなると大雨の時には川があふれ、まわりの家や田畑は大きなひ害をうけます。
 庄内川も年々川底が高くなり、宝暦7年(1757)、明和2年(1765)、4年(1767)、安永8年(1779)には、大雨で水があふれて大きなひ害がおきました。
 明和4年の水害では、猪子石村(いのこしむら 名東区)で矢田川の堤防(ていぼう)がこわれ、名古屋の北部や西部は一面水につかりました。
 名古屋北部の水は大幸川(だいこうがわ)に流れこんでいました。このころの大幸川は、大幸村(だいこうむら、今の東区)から流れだし、名古屋の北を西に向かって流れ、江川(えがわ)にそそいでいました。しかし、江川はたくさんの水を流すことができないので、あふれてしまったわけです。
 このため、天明(てんめい)4年(1784)に大幸川の流れを変え、堀川に流れこむようにしました。
 この結果、それまでは名古屋城のお堀からの水だけだった堀川に、いつも水が流れこんでくるようになりました。また、堀川はたくさんの水を流せたので、大幸川があふれることもなくなりました。
 よく年の天明(てんめい)5年(1785)には、大幸川に朝日橋と大幸橋がかけられました。

 (CD 堀川ミュージアムより転載)